6/23/2012

寛容な社会

ファーストサーバーや原発に対する人々の反応に空しさを感じます。全員の意見を知っているわけではないですが、もう少し寛容であってもいいのではと。天災だろうと人災だろうと起きてしまった事は仕方がなく、そして誰しも間違いをおかせば失敗もするわけで、規模の大小はあれど、それをイチイチ糾弾していたら、先に進むものも進まなくなります。まして原発は、未曾有の大地震が引き金で、現状把握すらできず、規模の大きな余震も続き、自身の生命さえどうなるか分からない状況で冷静に判断・対応するのは、ほぼ不可能だろうと思うわけ。 
だからと言って、失敗が全面的に許されていもいいとは思ってなくて、然るべき団体や人物が(監督官庁や上司など)が、然るべきペナルティを与えればいいと思っている。僕が被害者であったとしても、そう思う。

一度事が起こると「金払ってんだから、何とかしろ」という態度にでるのは品性に欠けると言わざるを得ないし、金と物やサービスは等価交換で、お金を支払う側だけがエラいというわけではない。双方がリスペクトし合って然るべき関係だ。不当に高かったり納得できないなら、その物やサービスを選ばなければいい。

メディアが発展し、誰もが情報発信者に容易になれ、情報発信することの快感を覚えた一方で、その情報に対する責任はそれに見合っていない。特にTwitterは、情報発信の快感と「ただの個人のツブヤキだから」というエクスキューズが同居した快適な場で、だから流行ったんだと思うけど、そういう場では意見が過激になり易い。そして、それが引き起こしているのは、過剰な社会的制裁で、木っ端みじんになるまで叩きのめす風潮がある。とても幼稚な行動に思える。
誰にでも病気になる可能性はある、誰にでも大切な物を無くす可能性はある。それらと同じように誰にでも失敗や間違いをおかす可能性はある。そんな一般的事象を許す事ができない社会より、再起できる場所やチャンスを与える寛容な社会であって欲しいと思う。それが出来るようになった時、日本は新しいステージに進むんじゃなかろうか、とか。

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